3 路線の変更(太田川橋)
太田川橋の右岸下流側に,古い橋台らしき遺構がある(右写真)。これは,可部線の古い路線の跡だという話を聞いた。これを,地図などで確認してみよう。
(a) 太田川橋
広島市内方面から可部方面に至るルートは,古くから「出雲街道」ともよばれ,陰陽連絡の重要なルートの一部とされていた。渡し舟にかわって,1887年に木橋の初代太田川橋が架けられ,1904年に架けかえらた。さらに1923年に,当時としてはまだ珍しかったという,鉄橋に架けかえられた。
この太田川橋も,太田川の改修に伴い,1957年に上流側に隣接した新たな橋に架けかえられた。なお,それまで使っていた橋の一部は,三次市内の橋に転用された。
その後,国道54号線佐東バイパス開通に伴い,1980年に上流側に新太田川橋が架けられた。現在では,従来の太田川橋は広島市内方面行きの橋となり,新太田川橋が可部方面行きとして使用されている。
現在,可部線の鉄橋は,国道54号線(広島市内方面行き)の太田川橋にくらべると,斜めに架けられている(右写真参照)。左岸堤防上ではほとんど隣接している国道54号線と可部線であるが,右岸堤防上ではおよそ200m離れている。一方,件の橋台跡は,国道54号線とほとんど隣接する位置にある(上の写真を参照)。
地形図(1:25,000「可部」昭和22年修正)を参照すると,国道54号線の太田川橋と可部線の鉄橋は,およそ50mの間隔で並行していたことを読み取ることができる。そしてその後,可部線の鉄橋の右岸側が下流側へ移動し,現在のような位置関係になったことがわかる。また,「上八木」駅の位置が現在よりもおよそ400mほど可部寄りに位置していることも読み取ることができる。1950年10月号の時刻表では「上八木」駅は「横川」駅から11.3kmとなっているが,1956年12月号の時刻表では「上八木」駅は「横川」駅から10.9kmとなっていることとも整合する。
これらの変遷を上の図にまとめた。
(b) 上八木−中島の路線
現在,可部行きの電車は「上八木」駅を出ると,少しずつ道路から離れて土手に上がっていく。この土手をくぐるところに,「1953-8」という刻印がある。この刻印は,この構造物がそのときに落成したものを示していると考えられる。したがって,つけかえられた新しい路線を電車が走るようになったのは,1953年8月以降であると考えられる。
今,具体的に示された資料がみつからないので確かなことがいえないが,以上のことから,可部線の鉄橋が架けかえられたのは,1953年ころではないかと考えられる。
可部線の鉄橋の架けかえの目的には,橋の前後にあった急カーブを解消することが含まれていたものと考えられる。このような急カーブは軽便鉄道ならばともかく,1,067mm軌間の鉄道としては運転上のかなりの支障になったものと思われる。
最初に橋が架けられたときは,おそらく橋の距離をできるだけ短くするため,最短距離で川を渡ろうと考えたのだろう(橋の工費も高く,橋桁そのものも貴重品だったものと思われる)。よりよい路線をつくるよりも,とにかく少しでも安く,少しでも早く,鉄道を開通させることが重要だった時代もあったということだろう。
(c) もっとくわしく見てみよう
夏,この遺構周辺の土手には草が深く茂っており,近づくことは容易ではない。しかし,秋には草が刈られたり,冬には草が枯れたりして,近づくことができるようになる。この機会を利用して,遺構をあらためて見てみるが,地上に出ている範囲にはとくに文字などは残っていないようである。
また,橋の上から川を眺めれば,川のなかに構造物が並んでいるのが見える。これらは国道の太田川橋とほぼ平行に並んでいることもあり,かつての鉄道橋の橋脚の土台部分ではないかと思われる。
(2001年10月14日作成,最終修正2010年01月27日)